生きる権利と死ぬ権利
嘱託殺人に問われた医師二人は、有罪判決を受けた。
病気の苦痛に苦しむ患者。その苦痛から開放してあげた医師。むしろ賞賛されるべきではないか。海外ではそうした権利が保証されている。日本は先進国といいながら、中身が伴っていない。学校の勉強だけしかできない、うすっぺらの私のようなものである。
昔、学校で「日本人の三大義務」なるものを学んだ気がするが、その中のひとつに「生存の義務」、寿命を迎えるまでは生き続けなければならない、とさえ定義されているかのようである。
政府が国民を生かし続けなければならないのは、税収が途絶えるからである。年金生活する高齢者を支えなければならないからである。
もう近々、日本は破滅するだろう。そんな未来に自らの未来を投影することなどできるだろうか。
自分が我慢しさえすれば
それで丸く収まるのであれば、それでいいと思っています。争うほどのエネルギーはもはやありませんし、よほどおおごとでなければ、その方が楽です。
兄弟が多い中での一番上でしたし、何より我慢すると、大人は褒めてくれました。それが結果的に悪循環になっていくのですが、幼いころの自分は、当然そのことを知りませんでした。
通信簿の生活態度の欄で「わがままをおさえ、いつも和やかに生活している(多少文章に誤りがあるかもしれません)」の欄は、いつも「大変良い」の評価がされていました。学校の成績よりも、そこの「大変良い」だけが自分の支えだったかもしれません。
大人の機嫌をとる
そんな中、大人の言うことをきいて、大人しくしてさえいれば、良い評価をされることを感じ取るようになっていた。
毒親からは「いい学校を出て、いい会社に入って…」と常に言い聞かされていた。勉強自体は好きではなかったが、そこそこ良い成績が取れていたので、周りの大人はチヤホヤしてくれた。
大人からよく見られることだけが、生き甲斐だったように思えてならない。
近所の子とも遊ぶことはあったが、それよりも独りで遊んでいたほうが心は落ち着いた。ブロックやプラモデル、また当時流行ったLSIゲームで遊ぶ日が多かった。手はかからなかっただろうが、その当時から何か大切なものを欠落させていたように、今振り返るとそう思う。
生い立ち
幼少期はとにかく他人の言うことをきかない子どもだったらしい。幼稚園の頃も、お遊戯会の役を、タダをこねて代わってもらったように記憶している。また、駅などでも電車を待つことができず、ホームに着いた電車から乗り込もうとしていたようである。
近くにあった母の実家。母は4姉妹の3番目だったし、育った2軒長屋の隣の女の子も同い年だった。その一方で、母の実家にいた祖父や叔父に対して、どこか苦手意識が拭えなかった。男の子とは遊ばず、女の子とばかり遊んでいたような気がする。
その間に弟が生まれ、妹が生まれ、小学校に上がると、いわゆる「内弁慶の外地蔵」よろしく、学校では非常に大人しく、家族や親戚にはお調子者なところを見せていたように思う。
このブログのタイトルについて
身体に寿命があるように
心にも寿命があると思うようになりました
心は身体に比べてダメージも受けやすく、また回復もしやすいような気もするのですが
やはり寿命はあると思います
よく自◯した方の関係者から
「もっと話を聞いてあげれば」とか
「もっと頼ってくれたら」とか
そんな類のコメントが出てきますが
しかし、救えなかったことに対して
ご自身を責める必要は全くないのです
その方は精神的に寿命を迎えられたのです
身体の寿命を迎えられる前に
本当に心の寿命が近い人は
「誰かを頼ったら逆に迷惑になってしまう、重荷になってしまう」
と考えてしまうものです
身体が悪い方の行動範囲がせまくなっていくように
心が傷ついた方の思考範囲はどんどん狭くなっていきます
最終的には自らの手で、自ら自身に決着をつけるのですが
ただし、
いじめなどの「故意に他人の心の寿命を縮める行為」に対して
許容するものではありません
これは大いに処罰されるべきです
それとこれとでは全く別次元の話であります
心の寿命で失ってしまった方を悔やむのであれば
故意に他人の心の寿命を奪ったものに対して
報復することが
せめてもの救いであり、供養になると思うのです
親ガチャ
生まれるときに親は選べないから、ですか。
なかなか面白い表現だと思います。
個人的には、
(親も含まれるかと思いますが)身の回りに、これからの人生を生き抜くための方法、知識、制度やルール、あるいは心構えのようなものを教えてくれるチューターがいるかどうか
のほうが、ずっと大事だと思います。
大金持ちの家に生まれても、生きたお金の使い方がわからず、犯罪に手を染めてしまうこともあるでしょうし。貧困の家に生まれても、人として大事なことをこんこんと説いてくれる親がいれば、大きな心の財産や支えになるでしょうし。
自分は賭けない麻雀をやりますが、配牌が良くても、自摸が良くなければ、結局和了にはつながらない。親ガチャよりも大切なことがあると思います。